[モスクワ 4日 ロイター] - モスクワ市資産局のセルゲイ・マルティアノフ局長は9月下旬、部下たちにメールを送った。「一体、この怠業行為は何なんだ」──。
マルティアノフ氏が失望を表明したのは、部下たちがロシア国産の新型コロナウイルスワクチン「スプートニクV」の臨床実験(治験)にボランティア参加するのを明らかに渋っていたことだった。旧ソ連が世界で初めて打ち上げ、米国との宇宙競争のきっかけとなった人工衛星にちなんだワクチン名だ。
同氏は、部下たちへの治験参加割当枠の多くが埋まっていないままだと指摘。何人かがインフルエンザワクチンを受ける手続きをして、新型コロナワクチンの治験参加資格を失うように仕向けていると聞いたとも糾弾した。「ごまかしているのは誰だ」「コロナワクチンが絶対優先だ」と強い意向を示した。
同氏は、インフルワクチンの接種を受けてもコロナワクチンの治験は申し込まなければならないし、1カ月間隔を空ければ可能になると主張。友人や家族に募って治験に参加させるようにも要請した。「職員1人当たり最低2人だ」とした。
マルティアノフ氏はコメント要請に応じていない。モスクワ市保健局は、スプートニクVは既に治験の最初の2段階をクリアしており、安全性が示されたとした上で、治験参加はあくまでモスクワ市民が自発的に決めることで、医学的な検査を通ることが前提だと話した。
しかし、ロイターが閲覧したマルティアノフ氏のメールは、ロシアの国家公務員の一部がいかに治験参加を了承するよう強い圧力をかけられているかをあらわにしている。これは医療倫理の専門家に言わせれば、治験で求められる自発的な参加の倫理規範に相反する恐れがある。
モスクワ市資産局に近い筋はロイターに、モスクワ市の全部局の職員約2万人は、治験参加を割り当てられていると認めた。
ロシアのワクチン治験は今年9月初旬に始まった。現在はモスクワの29の診療所で最終段階に入っている。参加人数は既に約20万人。ロシア政府は、暫定結果でワクチンの92%の有効性が示されたとしている。同国は来年に国内外で接種10億回分以の生産を目指している。
治験がまだ終了していないうちから、ロシア市民は既に接種を受けている。同国の規制当局が、正式にワクチンを承認したのは8月だった。国内の新型コロナ感染者数は世界で4番目に多い。政府によると、軍の要員や医師や教師など感染リスクが高いと見なされる10万人以上に既に接種した。
プーチン大統領は、このワクチンについて「全ての検査を通った」と述べたが、大統領自身はまだ接種していない。政府によればプーチン氏の立場は、まだ治験中のものを接種するわけにはいかないということを意味しいている。プーチン氏は8月、娘の1人が接種を受けており、その後も経過は良好だと述べた。
ワクチン治験に際して、モスクワでは公務員を動員した。給与を政府に頼る労働者たちだ。ロイターの記者は10月に計6日間、11月に計3日間、13カ所の診療所を訪ね、32人の治験参加者に取材した。このうち30人は、職場で治験について話をされたとした。32人のうち23人は、純粋に自発的な参加だと答えた。この多くは治験参加の意義などを熱心に語った。
しかし、9人は本当は自発的ではないと答えた。この全員が公務員だった。数人は、参加を求める雇い主の懇願を断れないと感じたと語った。もっとも彼らが診療所に到着した後、医学的検査で治験参加に適格でないことが示されたか、あるいは診療所のスタッフが、参加を免れられるような口実を与えてくれたという。
何人かは、診療所まで行くには行ったが、治験参加は断ったと話した。意思に反して接種されたと答えた人はいなかった。
それにもかかわらず、医療倫理の専門家は公務員に対するこうした圧力は、倫理的な治験の指針を悪用しているかもしれないとみる。
英オックスフォード大学のジュリアン・サブレスク教授(倫理学)によると、一般的に言って、治験参加を拒否すれば何らかの代償が発生すると感じる場合、それは強制であり、英米や西側諸国では決して正当化されないとしている。
英ブリストル大学医療倫理センターのジョナサン・アイブス准教授は、何が強制に当たるかどうかは、当事者たちの関係によると語る。「治験に参加するようにとの雇い主からの圧力が、どんなに軽いものでも加われば、さらには被雇用者がその圧力を受け入れなければ仕事や安寧が脅かされるかもしれないと感じれば、これは強制だ。この件については非常に懸念を覚える」と述べた。
スプートニクVの開発支援と海外販売の責任を担う「ロシア直接投資基金」は、コメントを拒んだ。ワクチンを開発しているガマレヤ研究所を管轄に置く保健省当局者は、治験参加は自発的にのみ可能だと表明した。
<強制>
スプートニクVが既に規制当局から承認されたことで、職員に接種を直接命じた当局者もいる。モスクワ市第3診療所の副医務部長、オルガ・ツベトコバ氏は、10月にワッツアップへの職員向け投稿で「当診療所は、全職員に新型コロナワクチンの義務的接種命令を出した。これはモスクワ市保健局の監督に基づく」と記した。ロイターは「接種を拒めば停職処分になる可能性がある。これには法的根拠がある」といった内容を閲覧した。
第3診療所にコメントを求めたところ、モスクワは医療従事者がコロナワクチン接種を受けられるチャンスのある数少ない地域の1つであり、職員への接種命令は診療所がいかに職員を気に掛けているかの表れだとの返答があった。声明は「職員が自発的に接種を判断する。それも医学的検査に通った場合のみだ」と主張した。
オックスフォード大のサブレスク氏によると、ワクチンの安全性の科学的根拠が十分にあれば、治験中でも倫理的に接種できるという。安全性が十分に確認されて初めて、義務的な接種政策が正当化できるとの見解だ。
同氏は、スプートニクVの安全性のデータを入手していないので、ロシア政府の決定については論評できないとも述べた。ロシアの治験実施責任者は、これまでのところ予期せぬ副作用はないとし、治験参加者の観察もしていると述べた。ただし、安全性データの詳細は公表されていない。
義務的なワクチン接種は米保健事業では一般的だ。米労働安全衛生局(OSHA)は過去に、雇用主はワクチン接種を強制する権利があるとの見解を示している。
欧州ではワクチン規制は国によってもまちまちだ。一部の国は子供への接種を義務付けるが、専門家によると、雇用主と被雇用者の間では、被雇用者に接種を義務化できる余地は全般に少ない。
<国家公務員>
国際社会では、治験参加の倫理面を確保する規範が確立されている。世界医師会(WMA)の「ヘルシンキ宣言」の指針は、世界のほとんどの国が準拠するが、治験に参加する個人が治験に関するあらゆる可能性を知らされた上で同意することや、自発的に参加することが保障されなければならないとしている。
ロシアは、医薬品規制調和国際会議(ICH)が定める別の指針を採用する。この指針も治験参加は自発的でなければならないとしている。告知に基づく同意(インフォームド・コンセント)の書類に署名することも含まれる。モスクワで参加者は、参加が自発的かつ無給で「予期せぬ望まぬ効果が表れる可能性を排除することは不可能である」と記載された16ページの同意文書に署名する。
モスクワ市資産局の職員は、ロシア国家予算を財源とする他の機関の職員と同様、大統領選や国民投票などに際して、同国政府が参加数を大きくする必要があるときに動員に使う「頼もしい手段」として語られることがよくある。
ロシアの独立系世論調査機関、レバダセンターのデニス・ボルコフ副所長によると、政府が税源を握る仕事に就くロシア人の多くは、政府が望むことを行う義務があると感じている。それが彼らと国との社会契約の一部だと感じるというのだ。
「国から頼まれ事が来る。代わりに国は面倒を見てくれて、金銭的な豊かさを提供してくれる」。同氏は「これはデリケートなゲームだ。国は無理に強いた形にはしないが、説得し納得させ、あるいは何らかの勧告をしてくる」と話した。
ロシア連邦国家統計庁の最近の推計によると、同国の学校や病院や地域衛生機関などで働くそうした職員は約1900万人。7200万人弱のロシアの労働年齢人口の実に26%だ。