斎藤真理
[陸前高田(岩手県) 10日 ロイター] - 「磨さん 薄よごれた軍手、そして穴のあいた靴。まだ温もりがあるような気がして...帰って来た時に俺の気に入りの靴どうしたんだれと大騒ぎされそうなので、そのまま玄関に磨かないで置いときます」(熊谷幸子さんから亡き夫への手紙。原文のまま)
ようやく潮が引いたとき、世界は一変していた。家もトラックもまるで子供のおもちゃのように押し流され、生存者たちは泥と瓦礫の中で行方知れずになった家族や友人を探し回っていた。
東日本大震災から10年、長い歳月を経ても、被災した人々の多くは自問を続けている。あの日から会えなくなった肉親や友人はいまどこにいるのか。愛する子供がなぜ変わり果てた姿で戻ってきたのか。答えのない疑問を抱えたまま、時の経過では癒やせない深い悲しみに閉じ込められたままの人も少なくない。
<今も受け入れがたい現実>
岩手県陸前高田市。桜並木の私道の先で1人暮らしをしている佐々木善仁さんは、失った家族への自責の念を今も持ち続けている。
津波が押し寄せる中、妻のみき子さんは、当時28歳だった引きこもり状態の次男、仁也さんを必死で自宅から避難させようとした。しかし、仁也さんは家に閉じこもり、ついには波にのまれた。みき子さんもその後、濁流の中で命を落とした。
自分がもっと家族の問題に向き合い、妻や次男をしっかりと支えていれば、2人の運命は変わっていたかもしれない。70歳になった今、佐々木さんは、家族を苦しめた引きこもりに関する本を読み漁っている。
宮城県石巻市。佐藤美香さん(46)の時間はあの日で止まったままだ。6歳だった娘の愛梨ちゃんは幼稚園のバスの中で亡くなった。津波の後、暗闇の中から助けを求める子どもたちの声がはっきりと聞こえていたという。
陸前高田市の熊谷幸子さんは、夫の磨(みがく)さんがいつか戻ってくると信じていた。カレンダーの裏に磨さんへの伝言を書き、家に帰ってくれるよう伝える。夫からの返事を自分で考えて書くこともあった。受け入れがたい現実を変えることはできないが、そうすることで少しでも2人の時間を感じることができた。
<荒波の中で聞こえた妻の叫び>
大震災による地震と津波は東北の太平洋岸を中心に2万人近くの死者を出した。津波で冷却システムが停止した東京電力福島第一原子力発電所では、3基の原子炉でメルトダウン(炉心溶融)が起き、近隣に深刻な放射能汚染が広がって10万人以上の住民が避難を余儀なくされた。
被災住民や地域の復興に向けて、国が投じてきた復興資金は約31兆円に上る。しかし、どれほど大きな投資によっても、震災が人々の心に残した傷は消えようがない。
陸前高田市ではおよそ2万4000人の住民のうち、1700人を超す人々が犠牲になった。震災後、将来の津波から住民を守る対策として、高さ12.5メートルの防潮堤が全長約2キロにわたって海岸線に建設された。
3月の寒い夜、強風があおる激しい波の音が防潮堤によってかき消され、海の存在は消えていた。要塞のようなコンクリートの壁が、海とともに暮らし、栄えてきた町と海との融和を阻んでいる。
佐々木善仁さんの家は玄関から海が見える距離にある。しかし、好きだった釣りや海辺の散歩を今はほとんどすることがない。妻と息子2人と暮らしていた旧家が津波で流されたため、現在の家に引っ越してきてからのことだ。
震災発生の日、定年まであと数週間と迫った佐々木さんは、当時住んでいた自宅から車で30分ほどの漁村・広田の高台に建てられた小学校で校長として勤務していた。激しい揺れと津波の情報を受け、佐々木さんはまず全校の生徒を避難させた。
何より心配になったのは、引きこもりが10年も続いていた次男の仁也さんに最悪の事態が起きているのでないかということだった。ここ2年間は、仁也さんは家から一歩も出ず、外部との接触を拒んでいた。
「女房だけは助かったかもしれないな、と思っていました。避難所に行った時に『取り乱している女性はいないか』と聞いたんです」と、佐々木さんは静かな口調で語った。次男に何かが起き、妻が動揺しているのではないか、とその時は考えた。
しかし、みき子さんの姿は避難所にはなく、翌月遺体で見つかった。57歳だった。
津波が押し寄せてくる中、「他の人には会いたくない」と言っていた仁也さんをみき子さんはぎりぎりまで説得していたらしい。しかし、それもかなわず、みき子さんは長男の陽一さんと一緒に隣の家の屋根に逃れ、自宅が波にのみ込まれていく状況を目の当たりにしたという。
佐々木さんは眼鏡を外し、テーブルにある新聞の切り抜きを手にし始めた。部屋には段ボール箱が山積みされていた。昨年12月、40歳で結婚することになった陽一さんが家を離れるときに残していったものだ。
震災後、佐々木さんと陽一さんは一緒に暮らしていたが、津波の日のことを話すことはなかった。2人がようやく当時の記憶を語り合ったのはほんの数カ月前、陽一さんが引っ越しの準備をしていた時だった。
「息子が引っ越すから。もう聞けるチャンスがないと思って、(女房が)最後何を言ったのか聞いたんです 」と佐々木さんは語り始めた。
陽一さんが最後に見たみき子さんは荒波の中で瓦礫にしがみつき、叫び続けていたという。「お母さんが(自分に)生きろーって言っていた」という陽一さんの言葉が胸に突き刺さった。
津波の後、佐々木さんは亡くなった仁也さんが陥った引きこもりに関する本を何十冊も買った。苦しむ息子に自分がなぜもっと声をかけなかったのか。仁也さんを理解しようと格闘していたみき子さんをなぜもっと支えてこなかったのか。そういう自分を、長男の陽一さんが今でも責めているのではないか。
佐々木さんは独り言のようにそれを繰り返した。
「そういうことを忘れようといったって、忘れられない。逆にどんどん鮮明になっていく。時間が解決するというのはうそだろうね」
震災前、妻のみき子さんは引きこもりの子供を持つ親の会を立ち上げ、佐々木さんには退職したら手伝って欲しいと話していたという。
佐々木さんは今、みき子さんへの感謝と償いの気持ちを込めて毎月その会を主宰している。震災後、書き始めた引きこもりについてのニュースレターは50号近くになった。
<真実求めた裁判に冷たい視線>
石巻市で亡くなった被災者は3200人余りに及ぶ。佐藤美香さんの娘、愛梨ちゃんもその1人だ。妹と遊ぶのが大好きで、大きくなったらテレビのアナウンサーになりたいと夢を語っていた女の子だった。
震災発生時、愛梨ちゃんは地元の幼稚園にいた。その直後、園側は愛梨ちゃんら5人の園児をバスに乗せ、丘を下って海岸方面に向かった。
震災後の混乱の中、愛梨ちゃんの捜索は自分たちの力に頼るしかなかった。3日後、他の保護者とともに瓦礫の中を歩くと、合板や金属の破片の間で薄い煙がくすぶり、家の屋根の下で焼け焦げた黄色のスクールバスを見つけた。その中に、愛梨ちゃんの痛々しい姿があった。
佐藤さんは瓦礫の中から自分の手で愛梨ちゃんを抱き上げ、高台に運んだ。
「赤ちゃんぐらいの大きさになってしまっていて、もう、風が吹いただけでも壊れてしまう、飛ばされてしまいそうだった」と佐藤さんは娘を抱くように腕を組んだ。
「(津波が起きた日の)夜中の12時ごろまで、助けて、助けてという声が聞こえていた証言があって。ひょっとしたら子供たちは(津波の後も)生きてたのではないか」と佐藤さんは考えている。
震災の5カ月後、佐藤さんら4人の園児の家族が幼稚園側を訴えた。2014年、佐藤さんら原告団は幼稚園側と和解。佐藤さんら原告側の鎌田健司弁護士によれば、園側は法的責任を認め、合計6000万円の和解金支払いとともに、遺族に「心からの謝罪」を約束した。
しかし、幼稚園側から毎年、花束は届いているものの、謝罪の言葉を受け取ったことはないと佐藤さんは言う。
この幼稚園は現在、閉園している。同園側の弁護士は、ロイターの取材に対し、同園が毎年、犠牲者の家族に慰霊の花束を送っていると説明。しかし、この訴訟で佐藤さんら原告側と和解した内容も含め、詳しいコメントは控えると話している。
佐藤さんは「裁判で真実がわかるものだと思っていたんです」と言う。しかし、佐藤さんによれば、園の職員は法廷で「地震の日に津波のサイレンは聞こえなかった」と繰り返した。「自分たちと思っていたのと全然違って、真実は分からないままです」
ため息をつきながら、佐藤さんは娘を見つけた場所に近い慰霊碑まで歩いた。マスクを外し、石に刻まれた愛梨ちゃんの名前に触れた。愛梨ちゃんの焦げ付いた小さな靴とクレヨン箱は、今は近くにある震災記念館に展示されている。
「怒りが収まらない」 。佐藤さんは内気な自分として、このような裁判で世間の注目を集めるような立場になるとは思わなかった。「私たちの大切な娘が亡くなり、その事実が・・・」と言いかけた時、 地元の男性が佐藤さんをテレビのインタビューで見たと話しかけてきた。
「(裁判で)3億くらいもらったんでしょ?」。男性の言葉は辛辣(しんらつ)だった。
「いえ、違います」と答えた佐藤さんに、男性はさらにたたみかけた。「みんな大変だったんだからね。もういいでしょう」。男性は訴訟になったことを憤るかのようにつぶやき、去っていった。
佐藤さんたちに対して、応援する声は多かったが、心無い意見もしばしば耳にした。
「もう慣れてしまった」と佐藤さんは悲しそうに言いながら、停めていた車に戻っていった。「心ないことを言う人もいるけど、わからない人には何を言ってもわからない 」
娘に起きたことを二度とほかの子供たちに繰り返してはならない。そんな気持ちから、佐藤さんはいま悲惨な思い出を防災意識の向上に役立てる地域活動に尽力している。
「アイリンブループロジェクト」。佐藤さんは愛梨ちゃんが見つかった場所に咲いた白い花を「あいりちゃん」と名づけ、ボランティアらとともに、各地の学校などに同じ花を植えてきた。
咲き広がる花を見た子供や大人たちに防災の大切さを思い起こして欲しいという気持ちからだ。水色が好きだった愛梨ちゃんの思いを込め、プロジェクト名には「ブルー」を添えた。
石巻の被災地を訪れる人々には、自らの体験と震災の恐ろしさを伝える「語り部」となる。佐藤さんが今も携えている愛梨ちゃんの通園バスの時刻表が、声なきメッセージとして人々の心を打つ。
<本になった夫への手紙>
「磨さん、皆、復興 復興と目標をもって頑張ってるけど、私は何を目標にして生きれば良いの...早く元の姿で無くて良いから出て来て下さい...この大震災、人生をメチャクチャにして、あまりにも酷い酷すぎる。悪いこと何ひとつしてなかったのに! 幸子」(熊谷幸子さんから磨さんへの手紙)
東北地方では、いまだに2500人以上が行方不明になっているが、安否の確認や遺骨の捜索は困難を極めている。
岩手県では、不明者を探し続けている家族のために、各地の警察が毎月、商店街や公民館などで説明会を開いている。警察が行方不明者の身元を確認し、必要に応じて家族からDNAサンプルを採取する。
津波から3カ月後、同市の熊谷幸子さんは、震災当日、自宅を出たまま行方不明になった夫の磨さんに手紙を書き始めた。手紙は天気や朝食の説明から始まり、磨さんの居場所を尋ねる質問が散りばめられている。その数は200通以上になり、幸子さん自身が磨さんになって書いた答えもある。
「ままちゃん、くよくよしたって俺はもう戻れない。いつ迄も待ってるから頑張れ頑張れ(磨)」
熊谷さんが夫の身を案じて書き続けてきた手紙は2冊の本になった。きっかけは、復興支援のボランティアとして同市を定期的に訪れていた釣崎等さん(71)との出会いだった。釣崎さんは熊谷さんの悲しみを癒やそうと、カレンダーの裏に書かれた手紙をパソコンに打ち込み、手作りの本にして出版した。
「どの被災地の人たちも、元の昔に戻りたいという気持ちはすごく強い」と釣崎さんは言う。「元には戻れないから新しい街を作っていかないといけないけれど、なかなかそういう気持ちになれないところがあるんです」
自分の目の前で家族が亡くなったという決定的な証拠がない限り、熊谷さんのように、現実を受け入れられず、いつか戻って来ると期待しまう人がいる、と釣崎さんは話す。
この本を読んだ熊谷夫妻の息子、慎さん(51)は「(母の手紙で)改めて分かったこともある」と、2人の絆に気づかされたという。
津波から6年後の2017年、熊谷さんは磨さんの死亡届を提出した。その1年後、幸子さんは77歳で亡くなった。最後になった手紙のひとつには、こうつづられている。
「磨さん、おはよう。今年も残りわずか。見つからずに終わってしまいそうですネ...彷徨い彷徨いして大野湾に戻ってきたら奇跡だよネ。奇跡ってあるみたいだけどこの大震災にはないみたいですネ」
(斎藤真理 編集:北松克朗)